共進会の思い出 |
後藤安正 |
会場には、 往時の常連だった2〜3の顔も見え、 旧交を温めることができた。 その中には、 良きライバルだったAさんの姿も健在で、 彼は、 今回も手塩にかけた愛牛を伴っての参加である。 自分が脱落した後も、 彼の情熱は衰えず、 幾度となく賞を手にしてきた。 今回出品牛も、 若しかしてと予言しておいたところ、 そのとおりに3区の首席を占めてしまった。 昔培った鑑識眼が、 まだ活きていたのが至極嬉しい。 牛耕時代の一町歩は、 労働の限界だったといってよい。 昔は田植え仕舞いには、 疲れ直しに苗束で牛を洗ってやるものだと言い伝えた。 労に報いようという、 せめてもの心遺りであった。 家族のような牛への思いは、 いつとはなく共進会を目指すようになり、 初めて郡共の末席に連なって以来、 のめり込む破目になった。 刮目したのは、 先輩たちの鮮やかな手綱捌きである。 何れの世界にも名人上手は居るもので、 上位入賞牛ともなれば、 審査中、 正姿勢を保ったまゝ微動もしない。 させないのだ。 行き届いた飼育管理と相俟って、 優雅な気品さえ漂っている。 あのような牛を目指すからには、 心すべきは調教である。 それには、 引き運動を通じて、 牛との対話を心掛けるべきだと先輩が教えてくれた。 先輩といえば、 育成の手ほどきを懇切に助言してくれる、 多くの先輩に恵まれたのも幸運だった。 牛飼いは、 牛を見る目がなければ馬鹿を見る。 先輩の助言が誤らなかったことは、 経済的にも大いに役立つものだ。 郡共への出品も容易ではなかったが、 研鑽の甲斐があって、 県共へも手が届くようになり、 高森会場で次席を得た気分は、 思い出しても爽快だ。 共進会ならでの、 お祭り気分も懐かしい。 県共は2日がかりだったので、 一夜を、 牛と共寝の牛舎で明す。 牛好き同士、 飲み放題で勝手な熱をあげ、 牛飼いを芯から楽しいものにする雰囲気に酔い痴れたものだ。 滝部会場へ出品した折りのこと。 戦前、 役所勤めをしていた当時の上司に邂逅するという偶然があった。 20年ぶりだった。 尽きぬ思い出に花が咲く中で、 「Nさんも元気にしているよ…」 と、 すでに遠い人となっていた彼女の消息を聞いた。 Nさんは、 わが青春の軌跡を彩る大切な人だった。 類い希な達筆は群を抜き、 左隣りに机を並べていたNさんの、 きれいに通った鼻筋に汗を浮かべ、 職務熱心だった横顔が、 19のまゝに甦る。 いまは、 一男一女の良きママさんだとか。 ……上司は惜しくも他界されたが、 共進会が縁で復活したNさんの消息は、 今も変わらぬ麗筆に託されて、 寒暑のたびに伝わってくる。 耕耘機の普及につれて、 営農形態も変貌する中で、 和牛が、 役用としての使命を了えるころは、 自分の育成の熱意も薄れていった。 3頭の牛も前後してわが家を後にした。 最後の一頭は、 トラックへの乗車を拒んで遁げ帰り、 人間の薄情さに抗議するかのように、 牛舎の隅に蹲ったまゝ動こうとせず、 如何にも不憫であった。 曽ての牛舎は農機具で埋まり、 栄光を讃える賞状は、 それぞれの牛に持たせたので、 牛の名残は、 わずかに残った共進会用の油単が一枚、 家紋の梅鉢も色褪せたが、 手にすれば、 いまに遥かなひとつの青春が疼く。 (美祢郡秋芳町嘉万在住)
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<編集後記>
発行にあたって力の入った多くの原稿を頂き誠に有り難うございました。 今回は平成7年9月、山口県JAビルで開催した畜産講習会の講師鶴見須賀男先生に原稿を寄せていただきました。特に鶴見先生には北海道で指導された経験を交え「今後の畜産経営の展開方向について」その問題点と対応策等を書いていただきました。これ以上に畜産試験場、農業試験場から普及に移しうる試験成果の速報と、その他畜産情報の欄を設けました。参考になれば幸いです。 |